2007年冬の祭典「セロ弾きのゴーシュ」を観て

                                            俳優・ヨミガタリスト 松本直人


 やまびこ座での3種キャスティング分を観た。といってもキャスティングによる演出の違いはほとんどなく、個々の工夫レベルの違いと思われ、せっかくの3回、見方をもう少し変えれば良かったと後から反省。
 2004年にこの作品を初めて観たときには、非常に新鮮に一度観て、さらに特に感心した細部の工夫に注目してもう一度観た覚えがあるが、今回の場合、キャスティングによる違いに意識が向いたもののあまり差異を見つけられず、結局は前回公演との差異を特に意識することになってしまった。まずはそのあたりから。


■地の文の朗読■

 前回と最も異なる部分というと、ひとりから最大4人による地の文の朗読が、群読的要素も加えて舞台下手前で各シーンの冒頭に登場したことだ。前回は、最初のオーケストラ練習シーンの途中までの地の文をオケ役の出演者たちが語っただけで、後のシーンにはその種のものは入らなかった。
 この朗読が入ったことで、各シーンに安定感が生まれたとともに、そのテイストが小説の印象に近付いたことは間違いない。
とすると、その分、オリジナルシーンの意味合いも微妙に変化したのではないだろうか。


■オリジナルシーン■

 この舞台作品で賢治作品にないオリジナルシーンは、前回と同様、オーケストラ練習シーンの後にある楽屋番じいさんとゴーシュの会話、そして演奏会が成功をおさめた後のゴーシュの家での動物たちだけのシーンだ。
 「じいさん」は、今回は特に違和感なく受け止められた。
しかしゴーシュをここでどういう人間に描くかが、後のシーンとのかかわりの中でドラマを引き立たせることになるはずだと思うと、脚本ではなく演出の問題として、この会話をもっと作り込む必要を感じた。
 表情の出ない人形だからこそ、ゴーシュがおじいさんから何をどう受け取るのか、受け取らないのか。
その演技の差によって、動物たちとの出会いのシーンでの彼の変化を際立たせることができたはずだが、今回も、そのように見せてくれたわけではなかった。
 ゴーシュを主として演じた3名、それぞれの演技は微妙に性格を違えていたが、この「じいさん」との会話の必要性を感じさせてくれたゴーシュは残念ながらいなかったのだ。


■楽屋番のじいさん■

 「じいさん」の包容力ある理解だけではゴーシュは変わらない。
けれどもその示唆したことが、後から動物たちとの日々によって次第に実現していく。
そのようなドラマとなるには、スタート時点として例えばもっと卑屈なゴーシュが出現しても良かっただろう。
ひとりでは「泣く」演技がしにくい人形だからこそ、じいさんという触媒を出現させたのだろうから、そういう形でもっと有効に使えたはずだ。
その延長で猫とのやりとりが進むなら、むしゃくしゃを猫に投げ付けるとても感情的なゴーシュが描けたのではないか。
 やがて動物たちに指摘されることを受け入れる姿勢が現れ、最後には誰かのために演奏する視点までつかみとる。
そんな成長のドラマがもっとくっきりしたのではないか。
 楽屋番のじいさんに感謝するのではなく、動物たちに感謝の気持ちを持つ。そこに落ち着くためにも、そのくらいの関係演出が必要だと思う。
人形でどこまでそれができるのかは評者には分からないが、そんなドラマとして観たいと、今になって思う。


■動物たち■
 動物たちの奔放さは実に気持ちいい。ここまでやってくれれば原作との違いなんて大して気にならない。とはいえ、ゴーシュにかかわることとなるとそうとばかりも言ってられない。それまでと明らかにゴーシュが変わるのが小狸とのシーンだろう。最初は脅して追い払おうとさえしていたのが、願いを聞き入れる変化はどう生まれたのか。
 原作では、いくら脅してもまったく堪えないどころかとぼけた反応をする子狸に、ゴーシュは笑ってしまってつい受け入れてしまうという流れなのだが、この舞台作品の子狸は、どのキャストとも最初のゴーシュの脅しにびびっていた。
ということは、もう一押し脅せば追い出せたのではないか。びびる姿に笑ってしまったとしても、それで申し出を受けてしまうのはなんだか釈然としない。
 しかもここからゴーシュの動物たちに対する姿勢が変わっていくのだから、そのきっかけは小さくても大事なはずだ。


■嵐の唐突さ■

 けれど今回もっとも違和感を覚えたのは、楽長の「普通の人なら死んでしまうからな」という強く言うセリフきっかけで嵐の音楽が始まる、最終場面へのシーン展開だ。これは前回もそうだったのかもしれないが、今回はよりはっきり違和感を感じた。
 クライマックスがこれから始まる、それも悲劇的クライマックスが。そんな表現にしか受け取れないからだ。
しかしそれで始まるのは、楽長の悲劇を示唆するセリフとは全く無関係に、動物たちがゴーシュの家に訪問し、お礼を置いていくシーンなのだ。
 この嵐のシーン自体は、人形劇として非常に優れたシーンであることは間違いなく、その点については今回も賛辞は惜しまない。
だが、なぜ楽長のセリフきっかけでカットインする必要があったのか。
ただいたずらに劇的展開にしただけとしか受け取れないし、そのためかえって「なぜここで嵐が来る必要があるのか」とすら思ってしまった。


■最終シーン■

 その嵐の中、動物たちが残していったお礼。これはオリジナルシーンが最終シーンに残した原作にない存在である。
前回はその意味がほとんど感じられず、評で可能性として「演奏会の成果だけでは自覚できなかったことが、動物たちのプレゼントと向き合うことでゆっくり再発見されていく。
そんな静かだが印象的なシーンとして、最後のセリフまでの間が見えてくると分かったのかもしれない。
人形でそれがどう可能なのかは、筆者には想像がつかないのだが…」と書いた。
 脚本的に今回は「猫がゴーシュに手紙を書く」という要素を増やしてはいたものの、ゴーシュ自身の反応は「何か紙があるなあ」程度で、読めたのか読めなかったのかもこちらに伝わって来なかった。
結果、手紙の効果はほとんど感じられず、演奏会での成果を胸にカッコーに対するひとりごとをつぶやくと見えたに留まった。
もちろんそれは、単にこのシーンの作りだけでなく、ここまでのゴーシュという存在の積み重ねに左右されるところでもあろうけど。


■演奏にはやっぱり脱帽■

 しかし、前回評でもふれたことだが、人形たちの演奏には相変わらず脱帽だ。
特に今回はゴーシュの手の細かい動きまでが、
生演奏の土田英順さんのチェロ演奏をしっかりトレースしていて、なお素晴らしい演奏になっているのに驚いた。
それぞれかなりの努力をしたのだろう。
また、時間経過やトマトの日々の移り変わりなど、細部にわたる舞台表現の素晴らしさも従来通り。
 それだけに、ドラマの軸となるゴーシュの変化が、まだくっきりしていないのは残念に思える。
もっとできるはずだ。
各シーンのメリハリをここまで出せている以上、ゴーシュの変化をしっかり見せるだけの素地はあると思う。
 記念の第25回、お疲れさまでした。