人形劇フェスティバル2008年さっぽろ冬の祭典

                                            劇団回帰線 西脇秀之


 「ころころパンのぼうけん」
 まず、主人公のころころパンがかわいいですね。食べたくなるような、もちもちした感じが、好きです。ちょっぴり口を開いた時の表情も、愛嬌があって素敵でした。
ただ、ちょっと心配したのは、その可愛さがしっかり見えているのかなと、不安になる大きさだったことです。他の人形とのバランスの問題や、劇場の大きさとも関係するのでしょうが、もう一回り大きくてもいいのかなと思います。

物語は、おじいさんとおばあさんの家からはじまります。二人は残りわずかな小麦粉を集めてパンを焼き、「ころころパン」が生まれます。おじいさんおばあさんにとっては、愛する子供と同じですね。見ている時はそれほど感じなかったのですが、作品を見終わった段階で、ここでの親子としての関係が、もう少し深めておくとよかったように感じました。愛情の表現が、よりしっかり見せておけると、物語の最後がいきてくるように思えます。

その「ころころパン」が家を出ます。旅の途中で動物たちと出会いながら、歌を完成させてゆく過程が、話の中心ですね。この原稿は、台本や原作を読まずに書いていますが、ここでの構成は「出会い=主人公が動物と出会う」「ピンチ=動物に食べられそうになる」「ピンチを乗り越える=動物をやっつける」「獲得=歌の続きができる」の繰り返しになってゆきます。
出来事の反復は、物語の次の展開に興味を湧かせて、観客をワクワクさせてくれます。それは、観客が次の展開にどんどん欲深くなっていくとも言えます。ですから、「どうやってピンチを乗り越えるか」という、繰り返しの山場をどう作るのかが、やはり大切ですね。
たとえば、単純に生態系としての優位さで「うさぎ、きつね、おおかみ、くま」の順に動物に出会い、最後にくまをおじいさんがやっつけてしまうのが、構成としては一番わかりやすいはずです。(原作を知らずに書いてます。念のため)
しかし、この作品の展開は、動物の強さによってピンチの度合いが次第に増してゆくとはなっていません。それぞれの動物のキャラクターも、みんな可愛いですしね。ということは、動物と主人公の場面を、一つ一つしっかり積み重ねて、観客を楽しませてあげなければなりません。うさぎが、あっという間に世界一周してしまう場面などは、とても楽しいのですが、要の「ピンチ」の描き方が、どの動物の場面も、まだ弱いかもしれません。

もう一つ大事なポイントとして感じたのは、歌です。実は、動物たちと出会うたびに、歌の続きが生まれていっていることが、あまり印象として残っていません。歌、それ自体は、好感が持てました。ただ、それが、劇中にしっかり組み込まさっていないように思えたということです。
うさぎ、おおかみ、くま、きつねと増えてゆく歌詞を、役者が歌い分けるのか。それぞれの動物の歌詞に、もっと変化をつけるか。役者、歌詞、音響スタッフの技術も含めて、歌を物語の中の大事なポイントとして聴かせて欲しいと思いました。そういった物語の節目としての細かな工夫がなされると、作品の輪郭がわかりやすくなるはずです。

主人公のシンプルなデザインが、見る者の想像力を楽しく刺激して、作品にふさわしいものになっていたと思います。楽しく口ずさめそうなメロディーが耳に残り、歌声もはまっていました。ならば、その主人公が出会う動物たちとのエピソード一つ一つが、楽しく印象的になればなるほど、「ころころパン」の成長物語として、作品の完成度が増してゆくはずです。

 「星になった龍のきば」
 物語の骨格が、とてもしっかりしていて、楽しめるお話でした。登場人物もそれぞれ個性があってみんな素敵でした。個人的なお気に入りは、じいさん、ばあさんです。

冒頭の兄弟龍の争いは、スケールが大きく、紗幕ごしの演出も目を引きます。残念だったのは、極天木の桃の奪い合いが、わかりづらいことです。桃を視覚的に確認しずらかったことが一番ですが、音響技術も含めてのセリフの明瞭度、アクション、照明効果の調整が、まだ不十分なように感じました。

冒頭で、もう一つ指摘しておくことは、天空が裂ける場面です。それまでの兄弟龍の争いの世界より、どうしても世界が小さく見えてしまいました。ここは、この作品の演出、美術の最大の悩みどころと想像しますが、観客としての欲が出てしまう一瞬でした。
同じことは、物語の後半に登場する雷神にも言えます。天から降りてくる雷神を見ながら、姿が全て見えてしまうことの難しさを感じていました。もちろん、観客は世界を大きく見せる演技を期待しています。役者には、それが求められ稽古を重ねたことと思います。けれど、観客としては、もっともっとと欲張ってしまいますね。いわゆる劇場のプロセニアムを、そのまま額縁として世界を切り取って見せる演出です。その額縁の向こうに広がる世界を、どのように観客の想像力を使ってひろげさせるかが、勝負どころでなのでしょう。

物語は、天空が裂け、地上では雪しか降らず、人間たちは食べ物がなく苦しむこととなります。主人公のサンは、ここで「なんのために自分は生まれたのか」という問いを発見します。とても現代的な問いかけです。そのあと、旅の途中で出会う、白姫も同じ問いかけをしています。ここで、この問いが、作品のテーマの一つだと、お客さんは感じます。
(この原稿も、原作を読まずに書いていますから、的外れな指摘かもしれませんが)この現代的な問いかけの言葉のおとし込みが、もう一つ不完全かなと感じました。役者の問題なのか、セリフの問題なのか、物語の流れの問題なのか、あるいは、見ている私の問題なのかもしれないのですが。
乱暴に言ってしまうと、現実世界ではないお話ですから、「運命」というだけで主人公が旅に出ても、違和感がない設定です。というより、実際、主人公は「運命」を感じて冒険の旅に出ています。極天木の桃から生まれた主人公ですから、物語の流れとして、お客さんはそう捉えます。そこに、現代的な問いかけを仕込むとすれば、じいさんばあさんとの関係や、その暮らしを、もっとしっかり描かなければならないのかもしれません。

同じ問いを胸に秘めていたサンと白姫は、同じ目的のために行動します。「天の裂け目を繕い」そして「幸福な世界に戻す」ことが二人の目的となります。その冒険の山場は、兄弟龍とのやり取りですね。ここで、アクションとしての見所がもっとほしいと思いました。北の海や、南の火山でのダイナミックな動きとしてアクションという意味だけではありません。演技としてのアクションも、もっと見せることができたように思います。特に龍のアクションが重要です。たとえば、主人公サンとの駆け引きは、芝居としてもっと深められるだろうなと思いました。その駆け引きを表現するためには、龍の表情が人形としても少し弱かったのかもしれません。
雷神の場面は、先に書いた通りです。もう一つだけ指摘すると、「地上の人間たちの叫び声が聞こえないか」と問われ、雷神が改心します。この展開が劇的になるためにも、やはり、最初のじいさんばあさんとサンとの場面が、重要なのだと思います。

物語がしっかりしているので、観客に伝えなければならない情報量は、最小限で済む作品です。とすれば、芝居としてのアクションをどう見せるのかが、とても大切なのだろうと思います。世界観が大きくなればなるほど、その世界を生きる登場人物たちを、いきいきとした者にしなければならないのでしょうね。